食とヨーロッパの風景

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訪れたレストラン・主にヨーロッパの風景を撮りためた写真を中心に日常を織り交ぜながらアップ致します

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c0193304_123257.jpgワーグナーは1813年5月23日ライプツィヒに生まれ、1883年2月13日ヴェネチアで没しています。

この世に生を受けた時は、パウツェン(ドレスデンから東50キロの小都市)での連合軍敗北(ナポレオンに撃破された)とライプツィヒ会戦(ナポレオンが敗れた・10月16日~19日)の中間、時代は激動の時でした。
そのため、洗礼は8月16日トーマス教会で行われ、ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーと命名されました。

そして、母親は彼の創造と生活の全期間にわたり影響力を与え続けたようです。

また彼の音楽上では、ベートーヴェンが多大なる影響を与え、
作曲の初期時代では 、ベートーヴェン的シンフォニックな主題:暗い情熱的アダージョ:自由な3声のフーガ:末尾にカデンツ という流れのベートーヴェンを意識した
イ長調ピアノソナタ と ハ長調交響曲 (1832年作曲)などの作品があります。

その後交響曲を中心にオペラの作曲へと創作意欲が駆り立てられていったようです。

音楽学生だったワーグナーではありましたが、学生時代には独学でモーツアルト・特にバッハの平均律クラヴィーァ曲集は自力で解き明かす試みに取り掛かっていたようでした。

この、博物館を訪れてみてもわかるように、ピアノが何台も置かれていました。
写真は玄関ホールのグランドピアノです。

彼の作品の中にはピアノ曲がとても少ないですね。にもかかわらず初期のピアノ曲の中から後の「ワルキューレ」・「トリスタン」などに現れる主題をすでに予感させていた事は、原点にはやはりピアノの存在は大きかった事が理解できます。

玄関ホールから正面に入って行くと 今はコンサートホールとして使用されている部屋があります。当時ワーグナーの居間として使われ、ここに沢山の音楽家や知人が集まってきた事を想像させられます。

ここには 当時ワーグナー自身の所蔵が置いてありました。
今も、 本は在りましたが それが今もワーグナーのものかどうかわかりませんでした。

ワーグナーの創作時代は常に多くの知識からも得ていたことは、この部屋の壁全面にある所蔵の多さからもよくわかります。


学生時代から青春期オペラの創作に入っていくワーグナーですが、仕事を進めていく上で女優 ミンナ・ブラーナ と出会い彼らは1838年11月24日 ケーニヒスベルクのトラークハイム区の教会で結婚しています。

ですが、あまり幸福な結婚生活では なかったようです。経済状態が良くなくそのための争いが絶えず 結局はミンナの死 によって それは終わりを迎えます。

当時のどの音楽家もやっていたように、ワーグナーもヨーロッパ各地を転々とします。 もちろん ウィーンにも滞在しましたが ウィーンではあまり成功しなかったようです。

そんな、借金と逃亡の中にあるワーグナーを逃がしたが、リストだったのですね。

さまよえるオランダ人・タンホイザー・ローエングリン と次々に創作を広げていくワーグナーですが、このときすでに彼の創作方法は、時間の短さ・スケッチの完璧さと確定さがすべてで、 ピアノに向かっての作曲ではもはやなかったようです。

彼の作曲におけるピアノの位置は、ピアノで即興演奏することにより、彼の創造的記憶が刺激され、以前の楽想を思い起こさせていたのです。
また、ピアノで試す事により理論上かなっていても響きの好ましくない音楽を書き付ける事をふさぐために使用していたのです。

これで、なぜワーグナーの作品にピアノ曲があまりなく、殆どがオペラの作品であるという事が少し理解できたきがします。


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# by junomyu | 2009-02-16 01:38 | 音楽 | Comments(0)
c0193304_0143799.jpgニールンベルクから特急ICEで約50分、快速REで約1時間、ワーグナー音楽祭(7月25日~8月28日)にもかかわらず、バイロイト駅の周りは閑散としていました。

バイロイトの駅におりると、駅を背にして右手に向かうとR.ワーグナー・フェストシュピールハウス(Richart-Wagner-Festspielhaus)、左手に道なりに沿って行くと辺境伯オペラハウス、さらに歩いて行くとハウス・ヴァーンフリート(Haus Wahnfried)-ワーグナー博物館、リスト博物館があります。

バイロイトはブランデンブルク辺境伯の宮廷が置かれた町でもあります。

バイロイトでの目的は、ワーグナー博物館を訪れることでした。
音楽祭のチケットを入手することが出来なかったのと、2005年はニーベルングの指環 3部作は公演されないと聞いていたので数時間バイロイトには滞在しただけでした。

ワーグナーについては、ある種の偏見を持っていた私でしたがこの地を訪れその考えは一掃されました。

閑散とした駅前におり立った時には、あまりにも町が整然と静かなので一瞬の戸惑いを覚えましたが、

Haus Wahnfried に向かう途中 リスト、サン・サーンス、ブルックナーなどの多くの音楽家がこの地を訪れている事を考えると、何か胸踊るものも感じました。

写真は、駅からBahnhofstr を行き辺境伯オペラハウスに向かう途中ドイツらしく美しく清掃された街並みです。

c0193304_0182186.jpgワーグナー博物館に行く途中、辺境伯オぺラハウス(Markgraefliches Opernhaus)を 見学しました。

ブランデンブルク辺境伯の宮廷が置かれていた街なので、バロック・ロココ風の建物も残っています。

オペラハウスの外観は、とてもシンプルでしたが、内部は当時としては画期的な試みがなされ豪華さを放っていました。

客席・舞台装置、手すりなどはすべて木製でできており、緞帳は豪華な刺繍で・・・写真を撮りましたが、真っ黒で何も見えませんでした(残念!)

見学の後、フリードリッヒ大王の姉ヴィルヘルミナ皇女が建てた新宮殿(Neues Schloss)に行きました。
入り口では、家族ずれや観光客が休日の午後、暖かな日差しの中のんびりとくつろいでいた姿がとても印象的でした。

その後、ワーグナー博物館に向かいました。

(写真は、辺境伯オペラハウスの外観)

c0193304_022266.jpgワーグナー博物館(Richard-Wagner-Strasse 48) ・Haus Wahnfried 、ワーグナーが妻コジマと住んでいた屋敷に向かいました。

正面玄関前には、勿論パトロンだったルートヴィヒⅡ世の胸像があります。

2階建ての豪邸・内部はゆかりの品々、写真、楽譜、様々な物が展示されており、庭には夫妻の墓があり多くの人からの花束が供えてありました。

緑豊かな、閑静なこの地でワーグナーは数々の名曲を生み出し妻コジマとの生活ををどのように過ごしていたのか、想像するだけで胸が高鳴りました。

そしてルートヴィヒⅡ世の影響力の強さもまた、納得できました。

偉大なる作曲家の後ろにいつも偉大なるパトロンの影・・・

現在の世の中はかなり様変わりしたなと感じます。
今は、偉大なる音楽家の後ろには?すぐに即答できない複雑な状況!とでも言うしかないのでしょうか?
それだけ、時代は速く進みすぎている?という事かもしれませんね・・・・

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# by junomyu | 2009-02-15 00:28 | 音楽 | Comments(0)
c0193304_12181678.jpg写真は市立公園のシューベルトの像です。

Franz Peter Schubert(フランツ・ペーター・シューベルト)は 1797年1月31日ウィーンのリヒテンタールで生まれ、1828年11月19日ウィーンで亡くなっています。リヒテンタールの生家は今でも博物館として残っており、内部を見学する事が出来ます。小さなホールも併設され今日でも、そこでコンサートが行われています。

シューベルトは他の作曲家のように音楽のため他の国に出ることなく、一生をオーストリアの地で過ごした作曲家でもあります。
特に歌曲は有名で 1815年18歳の時には「野ばら」「魔王」「たゆみなき愛」等の名作を含む約145もの歌曲を作曲しています。

2008年はシューベルト没後180年を記念して多くの場所で、その記念のエベントを催していました。
シューベルトの話題には事欠きません。
シューベルトはウィーン郊外・リヒテンタールで幼少を過ごし、ヌスドルフにあるシューベルトの生家は今「シューベルト博物館」になっており、彼の遺品等を見学することもできます。

シューベルトの印象深い面持ちはトレードマークの 丸メガネ、人柄がしのばれます。

写真はシューベルト博物館にて、シューベルトの眼鏡:
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c0193304_12121790.jpg写真はシューベルトの生家にてのピアノですが、2008年はシューベルト没後180年記念の年です。

その死因は一説によると後期梅毒であるともいわれているが、、記録から見るとシューベルトは梅毒の第2期(発疹、脱毛など)止まりであったことがわかっており症状(発熱、吐き気など)の記録から腸チフスと見るのが妥当であろうと言われております。

シューベルトの死後、1838年、シューマンはウィーンに立ち寄り、シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問しており、シューマンはその机上で『(大)ハ長調の交響曲』が埃に埋もれているのを発見し、ライプツィヒに持って帰った。それはメンデルスゾーンの指揮によって演奏され、ノイエ・ツァイトシュリフト紙で絶賛されております。

シューベルトは《もっとも詩情豊かな音楽家》である と リストの言葉にもあるように ロマン派の音楽家達に大きな礎を残した存在ではないかと思われます。

シューベルトの生家には今も当時のピアノが残されております。
彼独自の世界は、ピアノを通して多くの作品が生まれたことがしのばれます。

この歌曲の王は、オーストリアから一度の出ることなくこの世を去りましたが、当時多くの音楽家は彼を知らない人はいなかったのでしょう。

シューベルトの魅力に乾杯~♪
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# by junomyu | 2009-02-13 12:22 | 音楽 | Comments(0)
中央広場からカイザーブルクに向かいます。

右手にバロック様式の市庁舎、さらに行くとニールンベルクといえばソーセージ:
で超有名なレストラン・ブラートヴルストホイスレ(Bratwursthaesule)があり、
さらに坂を上って行きます。

左手には、ルネッサンス・バロック時代につくられた、豪商の家フェームボーハウス(Fembohaus)があります。
市立博物館:特別展示をしているようでした。

ソーセージの香りに後ろ髪引かれながら、石畳の坂を上る気分は現実とロマンの複雑なコラボレーション?

訳のわからない事を考えながら中世の騎士達の面影を・・・・・・
やっぱりロマンよ!

皆さんは、ソーセージ絶対食べますよね?!
(あァ~やっぱり食べておけば良かった!後悔・・・)

(Foto:Fembohaus)
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石畳の坂道がだんだん急になり、登りつめると自然の岩肌がまだ残っているカイザーブルク(kaiserburg)に着きます。

12世紀に基礎を築き15~16世紀に現在の形になりました。

ここには、深井戸(深さ約60m)、2重構造の礼拝堂、塔などがあります。
塔に登ると、ニールンベルクの街を見渡す事が出来ます。

実は、ワーグナーもここニールンベルクに1835年にマイスタージンガーを作曲するために、訪れているんです。

ここで、マイスタージンガーの歌唱法を調べ、後に第2幕の終わりに取り入れているそうです。マイスタージンガーのお話はまた後日いたしますが、ワーグナーが妻コジマと住んでいたバイロイトはニールンベルクからIECで約50分、快速ERで約1時間なのです。

この地ニールンベルクはワーグナーにとってもチョッと違う意味で気になる場所だったのではないかと想像します。

ちなみに、ニールンベルクマイスタージンガーの初演は1868年ミュンヘン宮廷国立劇場、指揮はな・な・なんとコジマのもと夫、ハンス・フォン・ビューロー(彼はワーグナーの弟子)です。
皆さんもうご存知だと思いますが、コジマはリストの娘さんですね!
ワーグナーはどんな気持ちでカイザーブルクからの眺めを楽しんだのでしょうか?!

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c0193304_1935765.jpgカイザーブルクから大版画家デューラーの家に向かおうと思いました。
途中レストランの美しい看板が赤い花達と共にその職人の技を華麗に披露しているようでした。

ニールンベルクのマイスタージンガー(ワグナー作のオペラ~)
マイスター(Meister) 名人・達人・大家・巨匠・マイスター(手工業の技能有資格者)・親方と辞書を引くと書いてあります。
ジンガー(Singer)は歌い手

何故ニールンベルクのマイスタージンガーなのか、少し調べてみました。

中世の終わり南ドイツでは、自由都市が多くつくられ市民の自治をかなり認められていました。が実際市制は町民貴族に握られ職人達は団結をしなければ自己を主張できなかったので、手に職を持つ職人達は団結し、同種の職人で構成される組合組織をつくりました。

親方(Meister)・職人(Geselle)・徒弟(Lehrling)です。
日本の徒弟関係に似ていますが、違うところはドイツの場合それがシステム化され厳重な審査制になっているところです。

ニールンベルクも自由都市でしたのでこの制度を取り入れていました。
特にこの地では、親方から昇進する時職の技量だけでなく歌の実力も重視していたのです。
先に、定住していた民衆吟遊詩人達は、自分達のうたう歌を
文芸・修辞・論理・算術・幾何学・音楽・天文 の7つの文芸の知識を身につけて生まれると考えていたため、この流派で歌を習得した親方は普通一般より高い教養を持つ親方としてここ二ールンベルクでは、非常に高い評価を受けていました。

歌の道を究めた人をマイスター(名人)と呼びマイスタージンガーは、職人の親方と同時に歌の名人でもあったのです。

その後歌でも組合がつくられ、親方(Meister)・詩人(Dichter)・歌い手(Singer)・弟子(Schulfreund)・見習い(Schueler) 5つの階級が生まれ隆盛の時代は1540年頃だったようです。
その後歌の親方達はマンネリ化を産みその方向性は芸術に対する疑問の念をうみ始めます・・・・・

ワーグナーは、詳細に実地で調べ、自身のオペラにかなり反映させたようですね!

看板の鍛冶屋の職人さん達もこの制度のもとその技を磨いてきたのでしょうね。
ドイツを旅すると美しい看板をよく目にします。皆さんも是非1度は足をとめその技を楽しんでは如何でしょう。

c0193304_1937729.jpg最後は、ルネッサンス時代に活躍した画家デューラーの家です。
この建物は1420年に建てられ、彼が1509年から亡くなる1528年まで住んでいた家です。

内部を見学することができ、当時の生活の様子やデューラーの作品が展示してあります。
狭い階段を昇って広い部屋には、当時使っていた様々な仕事の道具、客を迎え入れたであろう居間、奥さんが料理をしていた台所、デューラーを慕って訪れる多くの人々の往来を想像できるそんな暖かな空間でした。

ユーロになる前のドイツ紙幣は、印刷されている肖像画が、どの金額の紙幣もデューラーの作でした。いかに庶民に愛されていたか、この家の木の温もりは長い年月を重ねても語りかけるようでした。

ニールンベルクには、他に国立ゲルマニア博物館・交通博物館など興味深い場所があります。時間があれば長く滞在し街の隅々まで散策できますが、悲しいかな私は日本人のツーリスト、次の街へ出発しなければなりませんでした。

オペラ・コンサートにも行きたかったけれど、次の機会に楽しみはとっておく事に・・・・
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# by junomyu | 2009-02-11 19:37 | ヨーロッパの風景 | Comments(0)
ミュンヘンからIC特急で約1時間45分、ドイツ・バイエルン州でミュンヘンに次ぐ2番に大きな都市です。

なんといっても、ワーグナーの歌劇「ニールンベルクのマイスタージンガー」で有名ですね。

また第2次世界大戦後、ナチ戦犯に対する「ニールンベルク裁判・1933年」が開かれています。

この大戦で街の90%近くが破壊されましたが、今はレンガ色の街並み・石畳の坂道・お城・教会などが中世のまま、ロマンティックによみがえっていました。

街並みは、中心にレグニッツ川(バンベルクにも流れていた)が流れています。

中央駅をおりるとすぐ目の前に城壁があり、ケーニッヒ門をくぐり旧市街にはいっていきます。
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ケーニッヒ門から旧市街にはいると、歩行者天国のケーニッヒ通りがあります。
この通りがメインストリートなのでいつも人でににぎわっていました。

色々なお店が並び、休日にはウインドウショッピングだけでも十分に楽しめる通りです。

ニールンベルクは、ドイツのクリスマスマーケットの中でもとても有名です。
クリスマスシーズンには、中央広場にクリスマスのオーナメント・屋台・お土産やさんが並び、日本とは違うクリスマスを味わう事が出来ますね!

通りを歩いていると、1年中クリスマス用品を売っているクリスマス屋さんを見つけました。とっても素敵なクリスマスグッズがところ狭しと並んでいました。

オーケストラのクリスマス人形達を見つけました!

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ケーニッヒ通りを歩いて行くと、聖ローレンツ教会があります。

聖ローレンツ教会は、1270年から1477年にかけて建てられたゴシック様式の建物で、

教会の中には天蓋からつるされた、受胎告知のレリーフ(ファイト・シェトス作)がステンドグラスの柔らかい光を受けて、それは美しく輝いていました。
(写真は受胎告知のレリーフ)

また、天まで届くようにと願いが込められた聖体安置塔(アダム・クラフト作)は、高さだけでなくその精巧なつくりも、とても印象的でした。

Moreへ続く
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# by junomyu | 2009-02-10 21:24 | ヨーロッパの風景 | Comments(0)